昭和48年7月4日 朝の御理解
x御理解第35節 
「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない」


 「信心は、日々の改まりが第一じゃ」そこから、新な心、改まっただけは確かに斬新でございます。新しい。大晦日と思うたり、元日と思うてとこう仰るように、一日のことを一つに切りをつける。
締め括りを付けるという事実。そこに元日を迎える心構えがというものが出来る。
 元日の心を頂くためには、やはり前の晩、あれもこれ本気に掛かるようなことのないだけの心構え、ものに精進しとかなければいけない。翌日までも思うことが、仕事が山積みといったようなことでは、元日のような心にもなれない。日々うれしゅう暮らせば家内に不和はないと。一日をうれしゅう暮らせばと。これはどこを頂いても自分自身の為ですね。
 改まることも自分の為、毎日元日のような心にならせて頂けるということも、自分自身の為です。人の為じゃない。大晦日と思うてと、いわゆる、明くる日を有難く迎えさせて頂くために、大晦日のような心で一日を終わらせて頂くことも、誰の為でもない、自分自身の為。日々にうれしゅう暮らせば等とは絶対自分の為でしょうが。
もう一日、腹かき回って、一日不平不足を言うて、誰の為でもない。
自分自身が一番苦しい場にある。結局は自分の為。
 そういう自分自身の為精進させて頂くことが、家内に不和はないというおかげになってくるわけです。家内に不和はないといったような円満な家庭になるから、おかげは限りなく頂けるようになるのです。、まずは自分自身の為なのです。
 それに、自分自身の為、ああ幸せになりたい、楽になりたいと言いながら、自分が改まるということもしなければ、お目出度い心になろうという精進も何もしない。だから、元日のような心も生まれてこないし、また大晦日のようなキリを着けるといったような、精進もしない。
 これではね、自分自身がいつもぐずぐずしとらんならん。成程不平不足で毎日を過ごさなければならない。それで、家内の中は、それでしだごだになってくるわけです。本当に家庭に不和がないと思うなら、まず自分自身が元日のような嬉しい心にならにゃいけん。
 それを丸きり、主人があげんじゃけん、家が円満じゃないとか、家内がああだから、ああと言うて他人のせいにする、自分自身がうれしゅう元日のような心で、目出度い心でおればです、誰がどう言うても、元日のような心で、ああ今日は腹は立てん。元日早々不足を言うちゃならんといったような精進が出来る。自分自身の為なのです。
 今朝、私は、控えに、毎日の通り、直子と幹三郎が二人ついて出て参りました。それでお礼を済まして、あそこに座らせて頂いたとたんに、私の心事に響いてくることが、テレビのコマーシャルで、あれはヨーグルトの宣伝文句ですかね。「ジョア、ジョア誰のもの、ジョア、ジョア君のもの」というようなコマーシャルがあっているでしょう。ヤクルトジョアか何かですね。
 私、どういうわけで、ジョア、ジョアと頂くじゃろうかと思いよったら、ジョアということは、あんなことを申しますね。「情けは人の為ならず」というようなことを申しましょう。情けをかける。
人に親切にするということは、人の為じゃない、自分自身の為だということなんです。だから、ははあ、情けというのはジョウでしょう。だからジョア。「情けは人の為ならず」「ジョア、ジョア誰の為」、情は誰の為でもない、君の為だということです。
 それで私は二人に、前に座っとりますから、言いました。あんた達がね、毎朝こうやって、眠たい、私の前でも、こう眠り倒れるようにしておるようなこともあるんです。昨夜なんか、直子なんか、少年少女会の会議があっとりましたから、昨夜はほとんど休んどらんでしょう。ですから、前でこう倒れんばかりにやって、それでもやはりついてきている。だから成程お父さんの為でもある。私も大変心強いですから。有難いし。だから私の為だけれども、実際は僕の為であり、君の為なんだと。「幹三郎自身の為であり、直子自身の、この信心修行だよ」と言うて、今朝から話しましたことでした。
 まるで、親先生の言いなさるけん、参ってきよるとか、親先生の為に参ってきよるような言い方をする人があるですね。それこそ、「息子が、合楽にばっかり参ってから」ちゅうちから、お母さんが言いなさる。「あんた私が好きや好みで参りよるとばじ思いよんの。
あんたどんが為に参りよるとばの」言うちから、言いなさるのを隣で聞いたちゅうてから、まるで笑い話のごとあります。けれど事実です。本当のことです。結局はあんたどんがおかげを頂かんならんけん、参りよるとよと言うような参り方をしている人がどれだけあるか分からんです。と思うですね。
 成程、そこへ難儀を感ずる。家庭の為にもそれを感ずる。だから信心になるのである。だから、最近は、それこそ合楽教会の大発展を一生懸命祈る。真心込めている。そのように、自分のことより人のこと、人よりも赤の他人の誰のことまで、いやそれは、天下国家の為までも、それを切実に祈れるようになる。
 そこを最近は皆さんの場合、合楽教会大発展ということを非常に力を入れて祈っとられる。果たして合楽教会大発展のためだろうか。
それは合楽教会大発展のおかげを頂かして頂かにゃならんという。
そういう心が起こるということは、そういうことの為の信心修行が出来るということは、誰の為でもない、それはあなた自身の為なのだ。
 私はいつもそれを実感するんですけれども、日曜度に奉修員の方達が、私がこんなに体が弱いですから、親先生の健康というのが、あの奉修員の方達が特別御祈念をして下さる、きっかけだったわけですね。けれども成程それが有難くないじゃないけれども、親先生のことをああして一生懸命願っておられることは、特別奉修員一人一人の為なんだと、私はいつもそれを思うんです。
 親先生の為の健康を祈っとるということは、そのまま親先生の為でもある。親先生がおかげを頂くことになるけれども、それを祈らなければおられない。あなたの為の信心であり、修行なのです。成程、情けは人のためならず。誰の為か、皆君自身の為なのだ。
 「信心は日々の改まりが第一じゃ」と。何か信心すると改まるらなんけんと、何か…改まるということも自分自身の為、「夜が明けたら元日と思うて」と仰るように、元日のような心で暮らせれる。
うれしゅう暮らせれるということは、誰の為。あなた自身が元日のような心でおれるということはめでたいことでしょう。
 また、日々をうれしゅう暮らせばと、嬉しい心で一日を暮らせるということは誰の為。それはあなた自身が幸せのためでしょう。だから、その為に日々の改まりが大事だと。日々が新、改まるということは、垢を落とすことですから、もう垢が落ちたところは、もう新なものが出てきとるはずです。脱皮するということを申しますね。
新しい次の皮が出てきとる。それが新な心なのです。
 だから、新な心、新な心というてもです、やはり、日々の改まりということに一生懸命努めさしてもらうということ。そこから新な心が生まれてくる。新な心で、元日のような心でおれることを、祈り、願わしてもろうて、嬉しい言うならめでたい心で、あなた自身が、あなた自身が幸せの中にあるのです。
 ですから、私がうれしゅう、めでとう行きよりますから、その雰囲気がです、いわゆる家庭に不和のない元までもつくるのです。誰の為、自分自身の為でしょう。お前がこうなってくれなければ、私は幸せじゃない、あんたがこうしてくれなければ私は難儀だというような考え方は大間違いですね。あなたのおかげで信心が出来るというのでなければね。
 昨日、北野の中村さんがお参りしてきてから、しみじみとお届けがありました。いわゆる孫の安代さんのことです。昨夜、あの人のことを考えたら、一睡もできなかったと。前の日ここで会うたら、もうこれ以上やせられるじゃろうかというごとやせとる。自動車に乗るでも、ステップに足をかけるのに、こうして足をかけてやらんなんごとする。
 初美と二人で話しました。私どんがごたる信心であの人を助けきるじゃろうかと昨夜初美と二人で、話しました。「おかげ頂ききるでしょうか先生」とこう言う。私が黙って返事せじゃった。尚またそのことを耳が遠いけん、聞こえんと思いなさったのか、「助かるとは助かるでしょうか」と。
 「私は知らんばの」ち、私は言いました。ね、親先生が「助かるがの。一生懸命縋らんの」ち言うたら、頑張り甲斐があるちゅうわけです。けれども、助かるか助からんかわからんとに、私どんがごたる信心じゃ、おかげになるめえとこういうわけです。誰が見たって、助からんような様子しとる。私が助けきるということでもなからなければ、私が助かると言うわけにもいかん。「けれども、中村さん、あんたと初美さんが助かることはもう絶対のことばい」と私が申しました。
 それには、例えば、昨夜も一睡も出来なかった程しに、あの人のことを心配する。その心配する心で信心する。孫がああだから、安代がああだから、おかげで初美さんの場合はもう、踊りも止めた。
そして、毎日日参りを続けたことのなかった女子が、まあ日参でもしようかという気になった。安代のおかげで日参が出来る。安代のおかげで修行が出来る。寝た間も忘れられんくらいに「金光様」が唱えられるということは、言うなら、孫安代の為であり、初美さんが為には、姪安代の為じゃなかのと私は。だから、おかげで安代のおかげで信心が出来るということになるじゃないか。
 そしたら、「親先生、私もそこんところところはようわかっとります」とこう言う。わかっとることをそげなこと言うのち、私が。
それがですね、昨日私が恵美子にそげん言いました。「あんた安代のおかげで、あんた日参出来よるとばの」ち。知ってるです。みんなわかってるです。
 ところが、なら、それを自分の上に持って来ると、もう迷うとるです。こげなこっちゃおかげにならんということも知ってるです。
恵美子さんちゅうのが、安代さんの母親になるわけですから、いわゆる娘の恵美子さんに、お祖母ちゃんが言うとる。「恵美子さんち、あんた日参出来るのも、安代がこげんあるけんで、信心が、あんたが出来るとばい」ち。私が丁度、中村さんに言うて聞かせたようなことが言えとる。
 だから、それが言えるようになった。わかっただけではつまらん。
例えば、初美さんが、お祖母ちゃんに、「助かりきるじゃろうかのうや」と言うたっちゃ、「あんたが、助かる助からんは、もう親先生に任せる。私だん一生懸命信心。だからこそ、私がもう七十、やんかて八十になる私が、お参りも出来るし、あんたも好きなことを止めてでも修行しようという気になるとも、やっぱり安代のおかげじゃから、安代のことはもう、親先生に任せるという気にならんの」とあんたが教えてやらんならんところじゃないか。
 あんたがそげなふうに言うてお願いするなら、私の願いもまた変わってくる。それはもう、卵はいかん、甘いものはいかん、水はガブガブ飲んじゃいかんと。「今日から飲んでよか」と私が。もう昨日から学校も辞めとります。今日から、なら私自身、糖尿病でああだけれども、辛いものも甘いものも、しかも腹一杯というてそげん満腹するようじゃないけれども、いつも当り前の通り、平常の通りにいただく。そしたら、そのことを非常に喜んで帰りました。
 今までは何か、神様が何か食べちゃならんと言いなさったごと思うとるけど、そげなこっちゃなか。神様に任せとると言いながら、やはり医者かかっとった時に、糖尿病にはあれがいかん、これがいかんと言うて、それこそ、もう自分には、もう甘いものはそばにおかんくらいに用心しとる。用心しとるどころか、食べ物そのものに、はあ卵が一番いかんと言うて、もう卵のせいのごと思いよる。卵にケチつけるようなもんじゃないか。甘いものにそれこそケチを、それこそ毒のごと思うとる。そげなことはなかて、とにかく神様にいよいよお任せするなら、そういうところをお任せして、おかげを受けなさいと言うて話したことです。
 誰の為の信心、成程、孫のためであり、娘のためであり、初美さんのためには、姪のためですけれども。その為に修行をするということは、誰の為でもない、あなた自身の為なのだ。合楽教会大発展を祈らにゃおられん程しの、言うなら、信心が育ったということは、誰の為、あなた自身の為。事実、あなた自身が徳を受けることのためなのですよ、ということになるですね。
どうぞ。